1985(昭和60)年 酪農学園短期大学から北海道文理科短期大学へ校名変更
酪農学園短期大学は、校名を北海道文理科短期大学と改め、男女共学の酪農科と女子を対象にした教養学科を設置しました。1990(平成2)年に男女共学の経営情報学科を増設し、酪農・教養・経営情報の3学科体制による総合短期大学として一新しました。
それまで、圧倒的に男子学生の多かった学園でしたが、教養科の開設で女子学生がぐっと増えてキャンパスの雰囲気がかわりました。
1979(昭和54)年 三愛女子高等学校移転
北海道縦貫高速自動車道路が本校校庭を通過することにになったため、学園用地の西端、酪農学園大学の農場内に校舎、設備を移転することになり、1979年にその移転を完了しました。
新築された建物は普通教室棟、特別教室棟、体育館、礼拝堂、管理棟の五棟がドーナツ状に廊下に結ばれたユニークな形態となっています。また、礼拝堂は三愛精神の三つの愛を象徴する三角形構造の独創的建物で、1,100名の収容能力をもち、シンボルタワーの先端、地上30mのところに十字架が取り付られました。
1979(昭和54)年5月11日定礎式が行われ、その際、園長、理事長、学校長が署名した聖書と全教職員、生徒、同窓生の各名簿と本校の過去21ヵ年にわたる多く資料をカプセル二個に納め、礼拝堂の先端床下に納めました。
1973(昭和48)年 酪農学園同窓会連合会 発足
学園各学校の卒業生は、同窓会を組織し、それぞれ活動をしてきましたが、この学校単位の同窓会をもって連合会を組織し、相互連携の下に強力な発展をはかろうとの気運が高まり、1973年酪農学園同窓会連合会が設立されました。
同窓会連合会は、学園各学校単位同窓会相互の連携と緊密化によって、単位同窓会の向上発展をはかるとともに、酪農学園の教育振興に寄与することを目的し、学園内に事務局を設置し活発な活動を続けています。
同窓生会館は酪農学園創立50周年を記念し同窓生の募金により、旧短大校舎を当時の姿に再現したものです。
特に正面左側には旧教室を復元しました。(下写真)
1983(昭和58)年10月1日、創立50周年記念式典に併せ同窓会連合会より酪農学園に寄贈しました。
1971(昭和46)年 三愛女子高等学校 校歌制定
1971年1月23日、宮古校長着任依頼、胸に温め続けられていた課題で、生徒からも待望されていた校歌が発表されました。
歌詞は、三愛女子高等学校の建学精神を盛り込み、緑なす原始林にいただかれ、石狩の野に地をしめてたつ本校のイメージのものとなりました。作曲は本校元音楽教諭太田和男氏が担当しました。
1. 空 遥か わが石狩は 美し(うまし)くに
乳蜜(みつ)流る 原始林(もり)の丘辺に
鳴り響む(とよむ) 啓示(さとし)の鐘は
ぬば玉の 闇を放ちて 開かばや 真理の秘帳
(とばり)ああ 三愛 わが学び舎に 光あれ
2. 光 充つ 学びの園は 女の城
咲き匂う わが友垣の 常(とこ)聖き 高き理想(おもい)は
三つの愛 堅く結びて 祈らばや 永遠(とわ)の平和を
ああ 三愛 わが学び舎に 恵みあれ
3. 生くる日よ 義(ただ)しくぞあれ いや崇(たか)く
若き日は 日々に新し 地の塩の みことば秘めて
青雲の 虹をいだきて つくらばや 新しき世紀(き)を
ああ 三愛 わが学び舎に 栄えあれ
1964(昭和39)年 酪農学園大学酪農学部獣医学科開設
1960年頃になると国内の酪農は急速に発展し、酪農家戸数、使用頭数が増加し、農村での獣医師が不足、その養成が急務となりました。
こうしたなか、学園理事会は、文部省に対し、「農業機構の改善にともなう酪農振興政策によって乳牛頭数が急増しているにもかかわらず、この酪農にかかわる獣医師が不足しており、酪農民より獣医師の養成が要請されている現況にあって、本大学に獣医学科を増設することは国の農業政策にこたえるものである。」旨の協議書を提出しました。
こうして、1964年獣医学科が開設されました。
黒澤園長は、「真に酪農民のことを考え、苦労多く経済的に恵まれなくても、農村で活躍する信念ある獣医師を教育養成することは学園の使命である」と考えられたそうです。
1962(昭和37)年 酪農学園大学酪農学部農業経済学科開設
大学における酪農の諸科学は、従来生産技術的側面からの研究を主流として推し進められてきましたが、これに社会科学的側面からの研究・教育を加えようと農業経済学科が発足しました。
農業基本法成立の中、新しい農業指導者を養成する学科として、社会的な注目の中でスタートしました。
右写真の皆が手にしているのは、計算機です。懐かしい~!!
1960(昭和35)年 酪農学園女子高等学校から三愛女子高等学校へ校名変更
酪農学園女子高等学校開校後まもなく関係者の間で、普通課程の高等学校で「酪農学園」がついたのでは、農業課程の学校と誤解されやすいので校名の変更要望が高まりました。
学園では理事会や職員会議で検討するとともに、生徒より校名募集を行うなどした結果「三愛」が学園の建学精神にも一致して、女子高校の名称にもふさわしいとして、1960年「三愛女子高等学校」と改名しました。
1962年に体育館、1963年に礼拝堂が完成し、その年の12月には、礼拝堂献堂式と開校5周年記念式典、同時にNHK交響楽団を招いてのクリスマス記念音楽会が催されました。
1960(昭和35)年 酪農学園大学 誕生!酪農学部酪農学科設置
昭和35年1月大学設置が認可されて、わが国初の酪農学部を置く酪農学園大学が誕生。短期大学学長であった樋浦誠氏を学長に選任し、180名の学生でのスタートとなりました。
キリスト教の精神によって人間教育を行い酪農の科学並びに実際を教育し以て神を愛し人を愛し土を愛する三愛の精神に徹する有為な酪農人及び指導者を養成することを目的とし、とかく理論学習偏重になりがちな大学教育に対し、実学教育を尊重し、理論と実際が一致する教育・研究の場を設けるように心がけられました。
開校当初は校舎、施設等に不備な点が多かったのですが、年毎に教師陣も強化され、講義も拡大し、また、第一校舎をはじめ多くの施設も拡充されました。
1958(昭和33)年 酪農学園女子高等学校開学
昭和30年代に入り、江別市の人口急増と女子の高等学校進学希望者の増加によって普通課程の女子高校設置が要望されました。酪農学園は地域住民の要望にこたえるとともに、長年考えていた女子教育の実践に踏み切り、酪農学園女子高等学校を開学しました。
人間教育の基礎をキリスト教におき、神、人、土を愛する三愛精神によって、正しい人生観、公正な世界観のもと、真理と平和を希求する人格を養い、社会と家庭において使命を自覚して活躍する女性の育成をはかることを、教育理念としました。
讃美歌453番 「きけや愛の言葉を」
作曲: Colin Sterne 作詞:Henry Ernest Nichol
1.聞けや愛の言葉を 諸国人らの
罪とがを除く 主の御言葉を 主の御言葉を
*(おりかえし)
やがて時は来たらん 神のみ光の
あまねく世を照らす 明日は来たらん
2.見よや救いの君を 世のため悩みて
購いの道を 開きしイエスを
*(おりかえし)
3.うたえ声合わせて あめつちと共に
よろこびにみつる さかえの歌を さかえの歌を
*(おりかえし)
開校当時、まだ校歌がなっかたので、賛美歌453「きけや愛の言葉」が校友歌として歌われていました。
1952(昭和27)年 酪農讃歌の誕生
キリスト教界の元老で明治から昭和にかけてキリスト教的贖罪(イエス‐キリストが人類のために十字架にかかって、世の罪をあがない、神と人との和解を成就したこと。)の実践として、さまざまな社会事業、社会運動に力をそそいだ賀川豊彦氏の来校を機会に校歌の作詞を依頼し、子息賀川純基が作曲を担当し讃歌「酪農興国」が誕生しました。現在、酪農讃歌と略称し、大学、短大の重要行事に歌われています。
1.黒土よ 緑なす草 身につけて
地上を飾る日の本に(原詩は野幌に)
牛追う若人はぐくめよ
窮乏の底に沈める国興せ
乳房持つ神 我と共なり
2.はらからよ 手に手をとりて 村守り
弱きを助け 貧しきを
いたわるために 勇み立て
窮乏の底に沈める国興せ
乳房持つ神 我と共なり
3.み光に めぐみはつきず つまずく日
倒るる時も 見捨てずに
我をはげます神の愛
窮乏の底に沈める国興せ
乳房持つ神 我と共なり
2000年の11月に記念事業で来校された賀川純基氏によりますと、歌詞のなかにある「乳房持つ神」とは、聖書に中に書かれている乳と蜜の流れる地。という聖句から、恵みを与えることのできる神という意味ではないかとのことでした。